あなたはゲームという鏡を通して、何を見ていますか?

(※緑ヨッシーは親戚とこの赤ちゃんにあげたため、不在です)


ツイッター(※)で遠回しに
「もっとゲームの感想を書いたら?」
と提案されたことがあります。

※今はツイッターやってません

私にその発言をなさった方は
マンガの感想をブログに書いていらっしゃって。
多岐にわたる教養と独自の切り口で
マンガ愛を語り尽くしていらっしゃいました。

私はごもっともなご意見だと受け止めつつ、
「マンガは静止画だけど、
 ゲームは動画だからなあ・・・」
と考えていたのを覚えています。

「私があんまりゲームの感想を書かない」のは、
ある意味ものすごくゲーム愛が強いからだなって思いました。

だから、今日はその理由について
つらつら書いてみようと思います。


①ゲームの全貌が見えてくるまでに時間がかかる

ゲームはクリアするまでだいたい
10時間から50時間くらいかかるよう設計されてます。

そのため、ゲームの中盤以降に
新しい要素が追加されたり
遊び心地が変化することも珍しくありません。

最初のころはパッとしないと感じていた仕様が
後半の伏線だったことに気がつき、楽しくなってくるとか。

反対に、遊び始めたころは良かったのに
段々あきてきた・・・というのもありますよね。

感想を書くころには、
最初のころのフィーリングを思い出せなくなります。
それに、ゲームプレイ中に感じた細かい気付きを
すべてメモしていくのは至難の業ですし、
いちいち中断していたらゲームが楽しめなくなります。

誠実にゲームの感想を書こうと思ったら
時間がいくらあっても足りないんですよ・・・。


②やっかいな「言葉という壁」

ゲーム=インドアなイメージが定着していますが、
目・耳・手をフルで活用していくので
身体的な遊びであると言えます。

身体的な楽しみを、
言語化すると無理が生じますし、嘘が生まれます

言葉にしてしまうと嘘が生まれるというのは、
しょうがない側面もあるんですが
このことに自覚的な人と
無自覚な人に分かれますね。

私はほんとうの意味で
言葉を操ることなんて出来ないと考えているタイプなので
文章を打つときに
そうとうな量のエネルギーが出て行ってしまいます。
分かりやすく言うと、
「つねに自信がない」ということです(笑)

実際、人間は無意識をもちいずに
言葉を喋ったり書いたりすることはできないそうですよ。
意識だけでやろうとしたら、
時間がかかりすぎてラグが生じるみたいです。

このゲーマー日記では
「自分」という読者が満足すればいいや、
という低いハードルで書いるので、すごい楽です。
想定読者は1人(笑)


③「このゲーム作ろうと思った人面白い!」

私が面白いゲームを遊んだときの感想は、十中八九
「こんな面白いゲーム作る人って、どんな人だろう?(ワクワク)」です。

途中から人に興味がいってしまって、
ゲームから離れて行ってしまうんです(笑)

ひとから驚かれるくらい
ゲーム開発者のインタビューの内容覚えてたりしますから。

人間って「何かを作りたい」という創造の欲を
根源的に備えていると思うのです。
だからゲームを作っていない側の人間であっても
ゲームを作ることに携わってる人間の抱いている衝動に惹かれるというか。


オックスフォード大学の話だったと思うのですが
(うろ覚えでスミマセン)
本を読むときは
著者の思想や意見を行間からくみとるよう指導する。
なぜなら著者の考え方を理解すれば、
その書物をふかく理解できるようになるから、と。


成果物をみたときに、
それを制作した人のことに想いを馳せるのは
けっして邪道ではないと思います。

その成果物に“だけ”にフォーカスしているようでは、
自分の思い込みを打破することはできません。

思い込みがひどい状態だと、
作品を素直に楽しんだり、
まっとうに評価したりすることは
ほとんど不可能と言ってしまっていいんじゃないでしょうか?

ゲームに限りませんが、
作品を通して
「今までの自分を捨てさってもいい」
思えるほどの感銘を受けたとき
生きていて良かったって思えます

だから私は
真にクリエイティブな人たちを尊敬しています!

いつまでたっても変化できないままの毎日だったら
人生退屈すぎる。
変化できるから、楽しいんだと思います。



ポチと! ヨッシー ウールワールドやってみたいなあ。

連日ブログ更新しているせいで
ゲーム全然遊んでないですね(苦笑)

ブログ書くとゲーム意欲が下がるんですよ・・・。
シーソーみたいな関係です。